パラダイム・シフト
その時代に、あたりまえと思われていた物の見方や価値観が劇的に変化すること。
パラダイム(paradigm)=模例、規範、支配的な物の見方や考え方。シフト(shift)=位置や状態、体制などを移行させること。
科学の分野では、アイザック・ニュートンの「万有引力の法則」やアルバート・アインシュタインの「相対性理論」などが例として挙げられる。身近なところでは、インターネット(www)の普及やスマートフォンなどが生活を劇的に変化させたといえる。
現在、2020年から2021年にかけても、パラダイム・シフト(paradigm shift)が起きているともいえる。地球環境の変化、コロナ禍におけるライフスタイルの変化、世界で起きている出来事など、決してすべてが良い方向へシフトしているとも言えないような状況に見える。
そんなとき、フッ と思い出したのは、何年か前までよく足を運んでいた京都のお寺、龍安寺。
龍安寺(Ryoanji)
京都にある臨済宗妙心寺派の寺院・龍安寺(りょうあんじ)。1450年(宝徳2年)室町時代、細川勝元により創建されたと言われている禅寺だ。1975年の5月にイギリスのエリザベス女王が龍安寺の石庭を訪れたことで世界的にも有名な禅寺となった。いまでは世界文化遺産にも登録されている。
龍安寺の石庭
大小15個の石が、土塀に囲まれた白砂の上に配置され、なんともいえない抽象化された佇まいをしている。初めて石庭を見たときは、その水も木も緑もない風景(枯山水と呼ぶ)に、なぜか懐かしさが込み上げてきたと同時に、この石庭が日本にあることを誇らしく思えた。
15という数字は、東洋の思想では、「完全」や「完成」などの数字と捉えられている。だが、龍安寺の石庭はどこから見ても、15個の石の1つが石に隠れて14個しか見えないようなつくりになっている。それは「不完全」「未完成」を意味し、まさに禅の世界観が表現されているように思える。
龍安寺の石庭をつくった作者はいまだに謎のままで、石庭が創られた意図や解釈も見る人それぞれの想像に委ねられている。また、庭の石の1つに刻まれた「小太郎・口次郎」の文字、作者の名前?と思えるけれど、これも作者とは確証が得られないようだ。龍安寺にまつわる謎は、なにか「一休さん」のとんち話を連想してしまう。
石庭の美しさと見る人に委ねられた解釈
何年も前、龍安寺が好きすぎて龍安寺の本を読みあさっていた頃、そのなかの一冊に書いてあった「デカダンス」(décadence) という言葉。龍安寺を思い出す時、頭を過ぎる言葉だ。
「デカダンス」(décadence) とは:フランス語で虚無的、退廃、衰退の意味、芸術用語としても使われている。
フランス文学の世界では虚無的(きょむてき)なものに美を見いだした芸術家、ステファヌ・マラルメやアルチュール・ランボー達がいた。虚無的(きょむてき)とは、空虚、何もなくむなしいこと。
木も水も緑もない庭、15個あるはずの石が14個しか見えない石の配置、龍安寺の「石庭」は虚無的とも言えるのではないか。石庭の一つの側面として、「デカダンス」(décadence) という言葉と重なる部分を感じる。
マラルメやランボーが活動したのは1870年頃、石庭の作庭時期は、正確には不明だが、1500年頃ではないかと推測されている。いずれにしてもフランスの芸術家の活動から約200年以上も前に、龍安寺の石庭は存在したことになる。
謎解きのヒントになりそうな龍安寺の蹲
蹲(つくばい)とは、茶室の入り口付近に置かれた、しゃがんで(つくばう)手水で手や口を洗う(清める)ための手水鉢(ちょうずばち)のこと。龍安寺の蹲(つくばい)は、丸い銭貨の形をしていて、中央が「口」の形にくり抜かれている。その周りを「五・隹・疋・矢」の文字が囲む。周りの文字それぞれに中央の「口」を足すと「吾・唯・足・知」(ワレタダタルヲシル)となる。
「足ることを知るものは、貧しくても豊か、足ることを知らないものは、豊かでも貧しい」
蹲(つくばい)の言葉からは、15個の石を「完全」とするなら、どこから見ても一つの石が隠れて14個しか見えない石庭は、「不完全」なままでいいということ。そこに「美しさ」が宿るのだと思う。
何年か前に龍安寺に行ったとき、海外から来た観光客の女の子が、石庭を見て「ピースフル!」と言っていたのを思い出す。もしかするとその女の子は、白砂に配置された石を眺め、山や川などと同じように自然を感じ、何もないことに、満たされ穏やかな気分になって、思わず出てきた言葉だったのではないかと想像する。
パラダイム・シフトと龍安寺
2021年のいま、物の見方、常識や価値観が劇的に変化する時代に生きていると感じている。そんなとき、「足ることを知る」という教えから自分のライフスタイルを見つめ直すことも大切だと思う。機会があれば、もう一度、龍安寺の石庭を訪れ、石庭を眺めながら、自分自身と問答してみたい。